チンギスハンはなぜ圧倒的に強かったのか -モーニング新連載漫画「ハーン」を読む前に知っておきたいチンギスハン-
義経=チンギスハン説が題材の漫画「ハーン (週刊モーニング)」始まる
年の暮れ、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
僕はチンギスハンが大好きです伊藤です。
そんな年の瀬に、週刊モーニングで「ハーン -草と鉄と羊-」
という漫画の連載が開始されたのをご存知でしょうか。
ザックリ言ってしまえば、
鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟にして、平家討伐の最大の功労者として知られる、源義経が海を渡ってチンギスハーンになるというお話です。
知ってる人も多いと思いますが、
いわゆる「義経=チンギスハン説」を漫画にしたものです。
この説もザックリ言えば、
平家討伐後、兄頼朝と対立してしまった義経は、衣川の戦いで敗れて自害したと伝えられているが、
実は蝦夷地(今の北海道)に落ち延び、その後モンゴルに渡ってチンギスハーンとして生きた。
という説です。
元々、義経は衣川の戦いで死んではおらず、蝦夷地で生きていたという説(義経北行伝説)は、江戸時代にブームになった「義経記」がきっかけで広く知られていました。
で
そんな中、長崎にいたドイツ人のシーボルトさんが
「実は義経はチンギスカーンだよ!」
と色んな文献を元にして発表します。
これが義経=チンギスカーン説の発端だと言われています。
その内容に関してはwikipediaにめちゃ詳しく書いているので後はそっちを読んでもらえれば。
ただ、僕自身、この説は面白いとは思うけどわりと否定的で、
こないだも記事になっていましたが、
医学的に「義経=チンギスカーン説」が否定されてたりして今ではトンデモ扱いされています。
とはいえ日本人にしてみたら夢があるし、
チンギスハンを題材にした漫画であればとっつきやすいし絶対面白くなる!と思っています (チンギスハンの登場人物みんな覚えづらい)。
「チンギスハンの骨太な大作漫画出て欲しい!」と願い続けていたので、
この「ハーン」の成功を願ってチンギスハンの基礎知識と彼の強さを簡単に整理しようと思います。
年末やることないし。
正史のチンギスハンは「始皇帝」と「劉邦」の合体物語で覚える
元々、モンゴルの遊牧民族は文字を持っていません。
文字を持たないがゆえに、互いの約束事では独特の風習が生まれるなど遊牧民ならではの面白さを持ちます。
んで、文字を持たないがゆえに、チンギスハンがモンゴルを統一するまでの話にはなかなか確証のある文献が存在しません。
なもんで、元朝秘史などに記述されているチンギスハンの統一までの話はなんだか中国の歴代皇帝の話のデジャブ感否めない内容になっています。
幼少期のチンギスハンは、要は「始皇帝の幼少期」
キングダム読んでる人も多いだろうから、秦の始皇帝嬴政の幼少期の話を知っている人は多いかと思います。
要は敵国で母と二人、極貧生活を強いられていた
みたいなやつです。
チンギスハン(幼少はテムジン)も似ていて、
族長の父が毒殺された後、
部族から追放され、
母と親戚合わせて10人に満たない少人数で
生きるか死ぬかの生活を長年続けています。
特にこの幼少期の情報が少なく、
それ故に、
義経がチンギスハンとして大陸にいきなり登場した
という話も成立してしまうわけです。
統一期のチンギスハンは、要は「項羽と劉邦」
極貧生活を強いられていたチンギスハン(当時はテムジン)ですが、
徐々に仲間を集め、モンゴル高原統一までは、
最大のライバル「グル・ハン(ジャムカ)」と壮絶な戦いを何度も行なっています。
この、テムジンとジャムカの構図は、
「項羽と劉邦」に結構酷似しています。
仲間思いのテムジン(まるで劉邦)
と
冷徹非道なジャムカ(まるで項羽)
という構図になっており、
テムジンは戦に負け続けますが、
冷徹非道なジャムカに部下たちがついていけず、
負け続けのテムジンの元に仲間が集結していき、
最後はライバルジャムカを打ち負かすという内容です。
結構「項羽と劉邦」状態ですよね。
部下に騙されてチンギスハンに引き渡されるジャムカさん。袋に入れられて大量の馬に踏みつけられて処刑されます(一応最大限相手を敬った処刑方法)
この統一からようやく、チンギスハンの文献が登場してきます。
ようは、統一して近隣国を悉く略奪していくことで、近隣国がその恐ろしさを記述しだしたというわけです。
チンギスハンの弾頭は「干ばつ」だったから
書籍「文明崩壊」でも説明されているように近代以前の歴史を生み出す主要因の一つは「気候」だと言われています。
例えば、
信長などが活躍した日本の戦国時代は
「小氷河期」と言われる気温がかなり低下している時代で、
飢饉が故に武力が発展してしまった時代と言われています。
チンギスハンの弾頭もまさに気候が起因していて、
ユーラシア大陸でも1180年から10年以上にかけて大規模な干ばつが観測されています。
実際、チンギスハンの幼少期、
母と少ない親戚と過ごしていたころ、
普段ではありえないほどの寒波で生命線になっていた馬が悉く寒さで倒れています。
この干ばつこそがチンギスハンがここまで世界を席巻でした主要因ではないかと言われています。
遊牧民の生産活動は「牧畜」と「略奪」
人は生きるために食物を継続的に獲得していく必要があり、
日本や中国など多くの国では土地を構えて、
作物や動物を育て、自身のコミュニティで食物を共有したり、
器やアクセサリーなどを作ってお金に交換して生活のやりくりをしています。
それに対して、
モンゴルの遊牧民は、土地を構えることはしません。
モンゴル高原は草原つづきのため、
十分な作物を育てることができないので、馬や牛などの肉中心の「牧畜」で食べ物をえています。
それに加えて、「牧畜」では生活が安定しないため、
紀元前からずーーーーっと中国などの近隣国に向けた「略奪」もまた、
我々が思い以上に大きな生産活動の一つとなっています。
このスタイルはフィンランドなどの北欧とも似ていて、北欧の場合は、モンゴル高原と違って平坦な地形ではないので近隣国への侵入が難しく、海を活用した「海賊」により略奪活動をがんばってきましたよね。
そんな「牧畜」と「略奪」をメインにしていたモンゴルの遊牧民たちに襲い掛かった「大干ばつ」。
これにより必然的に、彼らの生産活動は「略奪」がメインになってきます。
略奪の生産性を高めるために、
武力強化が拡大し、武力強化に成功したコミュニティでは強引に他のコミュニティを巻き込み、中央集権化を図ります。
その結果が、チンギスハンによるモンゴル高原の統一で、
その後の中国、ヨーロッパへの大々的な侵略は、
元々「定住する」「土地を持つ」という認識がほとんどない遊牧民なわけですから、
領地拡大の侵略というよりはむしろ、
生産活動としての「略奪」の延長でしかなかったわけです。
※モンゴルの遊牧民は、匈奴などそれ単体の民族のようにイメージされがちですが、チンギスハン統一前に、タタール族、メルキト族、ケレイト族など様々な部族が存在していました。
史上最も人を殺した男チンギスハン
チンギスハンが率いるモンゴルは、
元々は違いに殺し合いをしていた多数の民族の集合体を成しています。
基本的には、
武力による制圧
か
降伏してモンゴルに下る
のいずれかで多数の民族を吸収してきました。
多数の民族を統治するためにも、
それら民族には生活の保障をしてやらなければならないわけですが、
長年の効率的な「略奪活動」しか生産活動を知らないモンゴルなわけですから、
彼らに与える生活の保障は「略奪の権限」でした。
こうして彼らは、
「生きるため」に「略奪活動」を続け、
結果的に地上の4分の1にあたる領土を獲得することになります。
とはいえ、前述した通り、
「定住する」「土地を持つ」といった感覚のないモンゴル民族ですから、
その土地を統治するという前提を持たず、
単に全てを略奪して焼け野原にして去って行きます。
モンゴルの侵略では草一つ残らないなど、
残虐極まりないように思える記述が残っているのは、
こうした土地に関する認識の違いがあったからかもしれません。
これにより、
元々5000万人いたとされる中国の当時の人口が
侵略後の40年後には850万人にまで減少したと言われており、
少なくとも中国人口の83%にあたる4000万人以上はこのモンゴルによる「略奪活動」で命を落としています。
チンギスハンの強さは「機動力」「捕虜前線」「合理的戦術」の3つ
何故チンギスハン率いるモンゴルはこんなにも圧勝し続けることができたのか。
個人的には
「機動力」「捕虜前線」「合理的戦術」
の3つだと考えています。
機動力
まず「機動力」に関しては、遊牧民だから当たり前っちゃ当たり前なんですが、
遊牧民ならではの馬の物理的なスピードに加え、
チンギスハンの意思決定の速さ
も挙げられます。
普通の組織であれば、
モンゴルでも漏れなく重役を一同に並べて会議を開いて意思決定を行いますが、
チンギスハンの場合、
彼がモンゴルのトップについてからは彼の一声で戦略の意思決定を行なっています。
これは織田信長とも似ていて、
忙しい重役たちを呼び出す時間を使わず、
彼の一声で組織の行動を決定することで、
他の組織とは比べものにならないスピード感を得ています。
こうした圧倒的スピード感によって、
他の勢力からしたら思った以上に早くきたという奇襲にも近い戦い方が常にできていたのは強みとして大きいように思えます。
捕虜前線
次に「捕虜前線」に関して、
今の僕らの感覚からすれば、いや当時の中国やヨーロッパの人からもその残虐性に耳を疑ったんでしょうが、
モンゴルは紀元前の匈奴と呼ばれていた時代から、敵の捕虜を戦の前線に立たせて戦うことを好みました。
最近で言えば、イスラム国も「人間の盾」と称して、人質になった市民を、銃撃戦の前線に立たせるというショッキングな事件がありましたが、まさにそれです。
元々、捕虜の扱いは歴史的に見ても厄介で、
特に街の侵略によって得た非戦闘員の捕虜の数が多い場合、
敵の捕虜だからといって安易に殺してしまうと、
それがきっかけで敵軍の指揮をあげてしまう結果になったり、
かといって、
捕虜を生かして置くには自軍の食料も彼らに与えることとなり、自滅に追い込んでしまう例もあります。
後者の食料維持を理由に捕虜を大量に殺してしまったので有名なのが
キングダムでもお馴染みの、六将白起が趙の長平の戦いで行なった長平の生き埋め事件ですし、
捕虜を殺すことができず、泣く泣く自国へ連れて帰って生かしたので有名なのがバビロンの捕囚だったりします。
元々、
戦争の多くは敵国の領土がほしいわけであって、
その後その土地を支配する必要があるわけですから、
一般市民の捕虜を安易に殺すことは多くの場合忌み嫌われる行為なわけですが、
そこらへんはモンゴルには関係ありません。
モンゴルにとってすれば、
捕虜は略奪行為によって得た「戦利品」ですし、
定住しない彼らからすれば、
略奪が終わればその土地はそもそも必要ないので、
その土地の統治には興味がありません。
そのため、モンゴルは「戦利品」としての捕虜を最大限、戦に活用します。
敵の罠や伏兵がいると思われる場所では、先に捕虜を大量に構えて進みますし、
敵の弓を切らすために、前線の捕虜にあえて敵の弓を命中させ、勢いに乗ろうとして敵が大量に弓をひくように仕向けたり、
特に城攻めにおいては、捕虜を大量投入し、敵を疲弊させる作戦を取ります。
また、後述する「釣り野伏せ」においても、捕虜を容赦無く活用するからこそ出来る戦術です。
こうして前線に立たされた捕虜は、
逃げると殺されますし、
家族を人質にされたり、
城攻めにおいては功績をあげるとモンゴル兵として登用させるという条件
を設けるなどしてコントロールしていました。
こうした容赦無く敵軍の捕虜を活用した戦を、チンギスハンは「釣り野伏せ」などにさらに用途を拡大し、独自の戦術で敵を圧倒していきます。
合理的戦術
多民族からなるモンゴルは、自ずと各民族特有の戦い方の情報が集まります。
チンギスハンは、戦った相手が用いた戦術、下った民族の戦術を大いに取り入れ、その有能性を様々な戦いで実践し検証しています。
特に、
当時の中国の王朝「金国」との戦で幾度となく強いられた城攻めにより、
チンギスハンは城攻めにおける定石を見つけ出し、
後のヨーロッパ遠征ではその城攻めテクニックを遺憾無く発揮して、
長年の金国との戦いで溜まったフラストレーションを発散させるが如く、
ブッチギリのスピードで征服を繰り返していきます。
また、前述で捕虜を容赦無く利用することからもわかるように、
ヨーロッパの騎士道や日本の武士道のように、一騎打ちで武勇を示すとか、不意打ちは邪道とかいった、戦における作法や暗黙の了解みたいなものがモンゴルにはありません。
チンギスハンは、
一騎打ちできるほどの強敵が入れば、
集団でそいつに向かって一斉射撃すればいいだけですし、
相手を大量に殺せるなら不意打ちをすべきだといった、
勝つことに突き詰めた合理的な戦術を好みます。
こうした合理的な戦術選択の結果か、
チンギスハンの戦いでは、「釣り野伏せ」という紀元前から知られている高難易度の殲滅術がよく見受けられます。
「釣り野伏せ」とは戦国時代の薩摩の島津家が命名した戦の戦術の名前です。
この「釣り野伏せ」、歴史的に見たら圧勝と言われる戦の中でちらほら登場する、戦における「一撃必殺」のような戦術です。
「釣り野伏せ」で有名な戦といえば、
この戦でハンニバルは、2倍以上のローマ軍7万人の86%にあたる6万人を殺したと言われています。
カンナエにおけるハンニバルの戦術は「包囲殲滅」と呼ばれています。
簡単に言うと、
対峙した軍の真ん中の兵だけ
わざと負けてお椀型に真ん中の敵だけが前進した状態から
味方の左右の軍がグルっと敵軍を円の状態で囲み込む戦術です。
↑対峙して
↑真ん中攻めこませて
↑左右回り込んで
↑グルっと囲って殲滅
敵からしたら四方八方から攻撃を受け、
軍の機能を失い、
円の中心に向かって各兵が逃げ押し込んでくる感じになり、
一方的な狩場になってしまう戦術です。
「釣り野伏せ」も同様です。
わざと退いて
前進してくる敵に対して左右から伏兵を使って襲いかかる
という聞けば単純な戦術です。
ですが、この「釣り野伏せ」、言うは易しで、実行と成功はかなり難易度が高いんです。
その難易度の高さの所以は
「わざと退く」ことです。
戦の中で「わざと退く」ということは、
兵を敵にわざと殺されるということを意味しており、
また
敵に演技と気づかれることなく、わざと負けを演出する必要があります。
これをやるには、
死んでもいい囮の兵の存在
と
その囮の兵に死ぬとわかってる上で演技してもらう
という2つの要素が必要不可欠です。
普通に考えれば、
「死んでくれ、その上演技もしれくれ」
と言われて一定数の兵を説得させるなんて並のカリスマ性がないと無理ですよね。
ちなみに、
この囮の軍になったのが、
ローマに並並ならぬ憎悪を抱えているガリア民族
と呼ばれる今のフランスの原住民の方々です。
また、
「釣り野伏せ」を命名した島津ですが、
この「釣り野伏せ」を得意としたのは、
「死よりも恐れる総大将」と言わしめた
島津四兄弟の戦担当、チート的強さを誇った「島津家久」で、
彼のカリスマ性があったからこそ出来た芸当と言えます。
チンギスハンは、
この決まれば一撃必殺の高難易度戦術を、
前述した捕虜を活用して城攻めで多用しました
。
具体的には、
城攻めを捕虜中心に任せて、
敵に圧勝している感覚を植え付け、
「モンゴルと言えどもこんなものか」と調子に乗った敵が、
城から出てきて追い討ちをかけるのをただひたすらに待ちます。
そして
城から出てきたところで本物のモンゴル兵が一気に襲いかかり、
城の主戦力を叩き、その勢いで城を一気に落とします。
何度もこの戦術をやればバレそうなもんですが、
基本的に侵略すれば皆殺しにして草一つ残さないモンゴルだからこそ、
その戦術が何年経っても広く流布しないといった偶然が重なりました。
さすがにチンギスハン以降の戦では、
この「釣り野伏せ」による城攻めも敵に勘付かれて効力を失ったようですが。